
素敵な加圧トレーニング
「薬草の潜在的な治療効果が誘導され、それが生命力にたいして超自然的にはたらきかけることを可能にする処理工程」が「振旦」です。
しかも、その一〇分の一の希釈液をさらに一〇分の一に希釈し、また「振造」するというプロセスを何回もくりかえして、希釈されればされるほど効果が強力になるというのです。
最終的には、もとの薬草の分子がひとつもなくなるほどに希釈した液体が最強の薬になるというこの理論は、とうてい科学的な医学にうけ入れられるものではありません。
「最強の薬」は現在の科学からみればただの溶剤でしかなく、それに薬理作用があるとすれば、かつてそこを薬草の分子が通過したという記憶または情報が、あるいは「スピリット」や「気」のような不可視のエネルギーが、溶剤になんらかのかたちで残っているからだとしかかんが96えられないからです。
「法則」はほかにもあるのですが、このふたつの法則をみただけでも、ホメオパシーが近代医学にくらべていかに特異な療法であるかがおわかりいただけるとおもいます。
バーネマンは命名の名人でもあり、当時の英雄医学を、「その症状とはべつのもの」を意味するギリシャ語からとって「アロハシー」と呼び、発熱に解熱剤、高血圧に降圧剤を処方する薬物療法を「アンティパシー」(その症状と反対のもの)と称し、それらにたいしてみずからの療法を、「その症状に似たもの」を意味する「ホメオパシー」と名づけました。
「アロハシー」はいまでも、現代医学の別名としてよく使われている名称です。
この常識破りの異端的な療法が創始者の独善にすぎず、治病効果がお粗末なものであれば、ホメオパシーはとっくのむかしに消え去っていたことでしょう。
しかし、事実はその反対で、ホメオパシーは一世を風靡し、ヨーロッパ各国にひろがって、バーネマンは傑出した医師として尊敬を集めるようになりました。
バーネマンを慕ってアロハシー医学を捨て、ホメオパシー医(正式には「ホメオパス」といいます)に転向した人はあとをたちませんでした。
いまでも欧米の各地にバーネマンの名を冠した病院や医学校が残っているぐらいですから、その名声の高さは容易に察せられます。
アロハシーをこえるホメオパシーホメオパシーはアメリカにも移入され、一八三〇年代にはフィラデルフィアに「バーネマン医科大学」が創設されました。
四〇年代末に中西部でコレラが流行したとき、アロハシーよりもホメオパシーのほうが有効であることが判明してからは、アロハシーを捨ててホメオパシーに走る医師が激増したという史実も伝えられています。
危機感をもったアロハシー陣営の医師たちは、既得権をまもるための政治的な圧力団体として、一八四六年にAMA(アメリカ医師会)を組織しました。
そして「排他的なドグマにもとづく治療をおこなう者は、正規の医師または治療家とは認められない」という倫理規定を採択し、ホメオパシーを排斥したのです。
一八五五年、AMAは全州の医師会にたいして「ホメオパシーをおこなう会員の除名」を定めた倫理規定の採用を要求し、六〇年代には、ホメオパシー医と共同で診療にあたったアロハシー医を告訴しはじめました。
その結果、ホメオパシー医である妻とともに診療にあたっていた医師が除名されるなど、医師会内部の過酷な粛清が成功して、AMAは名実ともに戦闘的かつ排他的な集団としての力をもつようになりました。
もともと「なによりもまず患者を傷つけないこと」というヒポクラテスの教えの遵守を旨とする温和な人が多かったホメオパシー陣営は圧力に屈して内部分裂をおこし、空中分解しました。
アロハシー医学にすり寄った多数派は、ホメオパシーの治療にアロハシー薬を導入するという妥協策をもって生き残りをはかり、「バーネマン派」と呼ばれる少数派は、あくまでも師の教えを厳密にまもる道を選んで、「外辺医療」に分類されるという屈辱に甘んじることになったのでした。
その「バーネマン派」が復活し、ふたたび正当なあつかいをうけるようになるには、一九七〇年代、対抗文化がそれを再評価しはじめる時期まで待たなければなりませんでした。
発祥の地であるドイツのホメオパシーは、医療の多元主義という思想が早くから成熟していたこともあって、医師会との確執もアメリカほど苛烈なものではなく、うまく棲み分けがおこなわれてきたようです。
ホメオパシー薬はどこの町の薬局でも売られ、現代医学と並んで人びとの選択肢の有力な候補になっています。
医療の選択肢はほかにも、シュタイナー医学、クナイブ療法をはじめ数多くあり、明治から戦前まで、日本の近代医学のよきモデルになってくれたように、ドイツはいま、代替医療のありかた学ぶための恰好のモデルを提供してくれています。
イギリスでもホメオパシーは盛んです。
バーネマンの時代から王室がホメオパシーを愛用していたこともあって、「ロイヤルホメオパシー病院」はいまでも健在であり、ウエストミンスター大学などの補完医療専門大学でホメオパシーが教えられています。
もっとも初期から代替医療の重要性に着目し、アメリカの医学校ではじめて代替医療の講座をもったアリゾナ大学のアンドルー・ワイルは、「現代医学と代替医療にみる治癒と健康のメカニズム」というサブタイトルをもつ『人はなぜ治るのか』(一九八三年)で、つぎのように書いています。
「アロハシーは唯物思想に立脚している。
ホメオパシーは、理論面でも臨床面でも、非物質的な現実観の重要性に固執している。
アロハシーの理論家にとっては、いまだに生き残っているホメオパシーの存在はにがにがしいかぎりにちがいない。
しかも、ホメオパシーが効くということは、侮辱以上のものですらあるだろう」。
そして、『ハムレット』のせりふをもじって、こう結んでいます。
「なぜなら、そのことによって、天と地のあいだにはアロハシー思想では夢想だにできないことがおこるのだということを思い知らされるからなのだ」骨格嫡正で万病を治すオステオパシー「アロハシー思想では夢想だにできない」のはホメオパシーだけではありません。
アメリカ生まれのオステオパシー(骨調整療法)もまた、本質的には現代医学の理解をこえた「非物質的な現実観」にもとづいて体系化されてきた療法です。
オステオパシーの創始者であるアンドルー・スティルもまた、バーネマンとおなじく、近代医学の医師として出発しながら近代医学を批判して、そのオルタナティブを提出するために生涯をかけた人でした。
南北戦争で北軍の軍医だったスティルは、一九世紀の薬剤信仰を批判し、薬物を使わずに病気を治したいとかんがえるようになりました。
そして、少年時代から異常ともいえる関心をよせていた「骨格の調整」によってそれをなしとげることに創意工夫のかぎりをつくしたのです。
先住民の墓から人骨を発掘して骨格の構造をしらべることを趣味とするという変わった少年だったスティルは、一〇歳のころ、おもいがけないことから大きな発見をします。
ある日、頭痛と腹痛をおぼえていたスティル少年は、いつものように庭でブランコ遊びをする気にもなれず、家から毛布をもってきて、大好きなブランコのそばで横になっていました。
なにげなくブランコを枕にしてみようとおもいたったことが自分の運命を変える契機になるとは知るよしもありません。
スティルはロープをのばしてブランコの板を低くし、板に毛布の端をかけて、その「動く枕」に後頭部を乗せ、あおむけになりました。
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